なぜ組織は人をしばり、不誠実にさせるのか
“身内の論理”と“個人の自由”のすれ違いから考える
2026年8月23日のアルンディの案内
●会場:京都市地域・多文化交流ネットワークサロン(地図参照)
京都市南区東九条東岩本町31 ℡075-671-0108
●日時:8月23日(日曜日)午後1時30分開場 2時開始
●報告:松尾匡 立命館大学経済学部教授
●司会:三木隆司(アルンディ運営委員)
【松尾匡さんの提案】
なぜ、ともに虐げられた民衆の解放を目指しているはずのライバル党派の者どうしが不倶戴天の敵として罵り合い、かつては殺しあうにまでに至ったのでしょうか。なぜ、「民主主義」を掲げる事業組織でトップの暴走を止めることができず、告発者を裏切り者として抑圧する事例が絶えないのでしょうか。
日本は昔、異論が言えない雰囲気に流されて互いを縛りあって、内外の莫大な人命を犠牲にした末に国を滅ぼしましたが、それを反省したはずの戦後もまた、会社のために互いを縛りあって心身をすり減らし、異質者を排除抑圧し、企業犯罪や不祥事を止めることができず、隠蔽を貫くことを繰り返してきたのでした。
このようなことを批判してきたはずの、左翼組織も協同組合もNPOも、やはり全く同じことをするのを免れなかったわけです。
これは、倫理観が足りないからでしょうか。そうではありません。拙著『商人道ノスヽメ』(藤原書店)や、『自由のジレンマを解く』(PHP研究所)では、社会システムには「身内集団システム」と「開放個人主義システム」の二種類があり、それぞれに対応する二種類の倫理体系や責任概念があるのだと論じました。開放個人主義システムの比重が社会で高まっているのに、倫理観がそれに対応していない「武士道」型のままなので、さまざまな病理が起こるのです。
戦争の反省が冷めやらない頃、プロテスタントの倫理を抱いて自立した個人が市民社会を形成して絶対王政を倒した物語を描く大塚久雄の史観が、個の自立の欠如を反省する世相の中、一世を風靡しました。この西欧を理想化した姿勢はその後批判されましたが、では日本社会がえらそうなことを言えるまでになったでしょうか。何も西欧の真似をしろというのではない。実は、個の自立にふさわしい倫理は、日本にも江戸時代には「商人道」としてあったのです。戦後も間違いなく細々と続いてきたこの伝統を自覚し、拾い上げればいいのです。
「上から目線」で頭ごなしに自分の信じる「真理」を押し付ける姿勢でなく、さりとて特定の現場のできあいの実感に流されるのでもない姿勢を、いかに貫くことができるか。難しい課題ですが、いっしょに考えたいと思います。




